○生駒氏

 生駒氏は藤原氏の一族である藤原房公の子孫で、大和国平群生駒(現在の奈良県生駒市)に移り住み、生駒を名乗るようになった。
 一説では、藤原時平の曾孫・信義が生駒庄司となったことから生駒を名乗るようになった。室町時代に応仁の乱(応仁元年1467年)が起こり、京都を中心に東軍細川氏、西軍山名氏が11年にわたり戦い、都は灰じんに帰し、奈良地方まで戦火が及びました。生駒氏はその影響を受け、商売不振となり、身辺の危険を感じ文明7~8年(1475~1476)ころ前野將右衛門を頼って、尾張国丹羽郡の地に移住した。
 安土桃山時代に宗家の尾張生駒氏、養家の讃岐生駒に分化いるが、度々両家の交流が行われている。
 宗家の生駒氏は灰(染料用)と油を取り扱い、馬借業として商い財を蓄えた武家商人である。3代生駒家宗の時、織田信康に仕え、桶狭間の戦いの戦功により、織田信長と親密になり、生駒氏の経済力と情報収集力に着目し、信長が生駒屋敷に出入りするようになり、信長から安堵状を受け、領内を自由に商売していた。
生駒屋敷(小折城)
東西371m 南北540m



                           広閒家の門(生駒屋敷の中門だったもの)




生駒屋敷跡             富士塚

富士塚は、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの時、東軍の徳川家康が生駒屋敷を訪れ、織田信雄と共に
塚に登って、敵である西軍(豊臣秀吉軍)の陣形を視察したといわれ、六角柱の石碑は、生駒氏の家紋(亀甲に五三の桐)で亀形の台石上に建てられたもので、お亀塚・お亀山とも呼ばれている。








○吉乃の方(久庵桂昌)




天文7年(1538)生まれ、生駒家第三代宗家の子
土田弥平次に嫁いだが、明智合戦で夫が戦死したため、兄の生駒家長が住む生駒屋敷に戻る。生駒屋敷に出入りしていた信長に見初められその側室となり、信忠、信雄、徳姫(徳川家康の長男信康の夫人)を生んだ。
 「信長公記」によると、信長は天文17年(1548)に、美濃の国斎藤道三の娘の濃姫を正室に迎えたとなっていますが、濃姫には子供がいなく没年も不明なので、吉乃の方が正室に代わるものだった。
 当時の木下藤吉郎(豊臣秀吉)が「吉乃に信長への仕官を求め仲介を依頼した」
「草履を懐で温めて信長に差し出した」というエピソードがある。
 吉乃の方は永禄7年(1564)に小牧山の築城とともに小折から移っつたが、永禄9年5月13日に病死した。29歳
法名は「久庵桂昌大禅定尼」。 生駒家の菩提寺 嫩桂山(ドンケイザン) 久昌寺の西方の 田代墓地 (通称大墓)に祀られている。
嫩桂山(ドンケイザン)の名は、この寺の境内に嫩(若い)の桂二株があり、久しく昌えていたことから名付けられた。、


吉乃の墓碑(田代墓地)




生駒家の菩提寺 久昌寺